FFシリーズが未来に残るために──フォトリアルでもドットでもない「中間表現」という道

アニメ調のFF7 作品考察

FFは、この先どこへ向かうべきなのか。
そして、未来にどう残っていくのか。

この問いは、ブログのあちこちで断片的に触れてきた。でも、今一度語りたい。


原作FF7時代の野村哲也イラストが持っていた“中間表現”へ、もう一度立ち返る方向へ行ってみてはどうだろうか。
あの頃のFF7は、リアルすぎず、デフォルメすぎず、プレイヤーの想像力が入り込む“余白”を持っていた。

実際、原神やスターレイルなどを見ても、漫画的・アニメ的な表現は、いまや世界規模で受け入れられている。

フォトリアルの限界と「余白」の喪失

FFは長い間、“最新技術のショーケース”であり続けた。

  • – 高精細モデル
  • – 映画的演出
  • – モーションキャプチャ
  • – フォトリアルな質感

これらは確かに美しい。でも同時に、プレイヤーの想像力が入り込む”余白”を奪ってしまった。

FF7(1997)のローポリやドット絵には、無限の余白があった。プレイヤーが補完し、想像し、物語を”共に作る”余地があった。

フォトリアルは、その余白を許さない。

アニメ調という”第三の道”

クラウド

フォトリアルでもない。ドットでもない。

では、その中間に何があるのか。

ひとつの答えが、『アニメ調の中間表現』だ。

アニメ調とは、写実性を追求しない代わりに「造形の美しさ」と「余白」を両立できる表現様式だ。人物の感情を誇張して伝えながらも、世界観の輪郭を観る者の想像に委ねる。だからこそ、時代を超えて通用する。

実際、世界的に成功している大作の多くが、この”中間表現”を選んでいる。

  • – ゼルダ
  • – ゼノブレイド
  • – ドラクエXI
  • – ペルソナ5
  • – 原神

そして実は、FF7の原作イラスト(野村哲也)は、この中間表現の理想形だったように思う。

アニメ調でありながら大人っぽく、余白があり、世界観に普遍性がある。
FFは本来、この方向性と相性が良い。

スクエニがフォトリアルを手放せない理由

スクエニがフォトリアルに固執しているのは、単なる好みではない。そこには『サンクコスト効果』が働いているのではないか。

「ここまで投資したんだから、今さら戻れない」

  • – モーションキャプチャ設備
  • – 高精細モデル
  • – 映画的演出のノウハウ
  • – UE5のリアル系パイプライン
  • – “FF=最新技術”というブランドイメージ

これらに莫大な投資をしてきたからこそ、方向転換が難しい。

でも私はこう思う。無駄にはならない。

それで世界的な栄光を掴んだ。ただ、時代は巡る。その”ボーナス期間”が終わっただけだ。
積み上げた技術は、必ず別の形で活かせる。

FFは”普遍的な表現”へ戻ってみては?

FFは、“最新技術のショーケース”である必要はない。

むしろ、技術に縛られない“普遍的な表現”を選ぶことで、未来の子どもたちにも届くゲームになれるのではないか。

フォトリアルでもドットでもない、アニメ調の中間表現という第三の道。

もちろん、これは単純に「技術を捨てろ」という話ではない。

そもそもFFは、グラフィックだけで進化してきたシリーズではなかった。

ATB、召喚演出、映画的カメラワーク、音楽との融合、世界を旅する感覚。
FFは常に、“体験そのもの”を更新してきたシリーズだった。

だからこそ今後は、リアルな皮膚表現や物量競争だけではない、新しい方向の“技術”へ進む余地もあるのではないか。

フォトリアルを極めることだけが、FFらしさではない。

ただ、「中間表現へ戻れ」と一言で言っても、FFシリーズは作品ごとに事情が違う。理想論だけでは終われない。では現実的にどう考えるか。
それをまた別の機会に、整理してみたい。


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