──FF7リメイク三部作と“無数のクラウド”
『FF7リバース』の中盤、ゴンガガでクラウドが語る
「俺が何人もいるような感じなんだ」
この台詞は、
世界分岐や記憶混濁だけではなく、
“プレイヤーごとのクラウド像”
そのものを表しているのかもしれない。

作中では、ジェノバ細胞や記憶混濁、劣化の症状として描かれている台詞である。
しかし、あの言葉はそれだけではない気がしている。
FF7という作品は、30年近くに渡って、世界中のプレイヤーがそれぞれ「自分のクラウド」を持ち続けてきた作品でもあるからだ。
- 強いクラウド。
- 優しいクラウド。
- 孤独なクラウド。
- ティファを選ぶクラウド。
- エアリスを選ぶクラウド。
- ザックスに憧れ続けるクラウド。
- 理想の英雄としてのクラウド。
クラウドは長年、「プレイヤーに解釈され続けた主人公」だった。
だからこそ、リメイク三部作がもし最終的に描こうとしているのが、
「クラウド自身が、自分の意思で未来を選ぶこと」
なのだとしたら。
それはある意味、
“クラウドが、プレイヤーから主導権を取り戻す物語”
とも言えるのかもしれない。
原作FF7は「プレイヤーの想像」で完成する物語だった
シナリオライター・野島一成 は、『INSIDE FINAL FANTASY VII REMAKE』でこう語っている。
「原作はデフォルメされた結果表現されなかった要素をプレイヤーの想像で補ってもらうことで完成する物語だった」
これはかなり重要な発言だと思う。
原作FF7は、今のゲームのように細かな表情演技やリアルなモーションが存在したわけではない。
だからこそプレイヤーは、
- クラウドは今どんな顔をしているのか
- 何を考えているのか
- 誰に惹かれているのか
- どんな距離感で人と接しているのか
を、自分の中で補完し続けていた。
つまりFF7は、“余白込み”で成立していた作品だった。
そしてその余白が、30年に渡って“無数のクラウド”を生み出してきた。
ドラクエより「クラウド」の方が投影される不思議
ここで面白いのが、FF7よりも本来「プレイヤーの分身」に近いはずのドラクエシリーズでは、FF7ほど深刻な“主人公の所有感覚”が起きにくいことだ。
たとえば Dragon Quest V のビアンカ・フローラ論争は有名だが、FF7ほど人格の奪い合いにはなっていない。
Dragon Quest XI も、後発版で結婚相手の自由度が増えたが、比較的「ゲームシステム」として受け止められている印象が強い。
なぜか。
おそらく、ドラクエ主人公は「器」として設計されているからだ。
一方クラウドは違う。
クラウドには名前があり、人格があり、過去があり、強烈なコンプレックスがある。
しかし同時に、
- プレイヤー選択
- 分岐
- 補完余地
- 無言の時間
- 90年代ポリゴン演出
によって、プレイヤーが入り込む“隙間”も大きかった。
つまりクラウドは、
“人格があるのに、余白も大きい”
という極めて特殊な主人公だったのである。

「俺がたくさんいる」──分裂するクラウド
クラウドというキャラクターの根底には、ずっと「揺らぎ」がある。
ソルジャーになれなかった劣等感。
理想の英雄像への憧れ。
ザックスへの羨望。
“本物”になれなかった痛み。
そしてクラウド自身も、リバースでこう語る。
「知っていて当然のことを知らなかったり
知らないはずのことを知っていたり
俺が何人もいるような感じなんだ」

もちろんストーリー上は、ジェノバや魔晄の影響である。
だがリメイクシリーズは同時に、
- 世界分岐
- 生まれては消える世界
- フィーラー
- “運命”
- セフィロスによる観測
まで描き始めた。
そしてセフィロスはこう語る。
「あるものは続き、あるものは続かない」
この描写を見ていると、どうしても思ってしまう。
あれは単なる並行世界ではなく、
「無数に解釈され続けたFF7」
そのものではないか、と。
プレイヤーの理想。
「こうあってほしいクラウド」。
それらは生まれ、消え、
また別の形へ変わっていく。

リメイクは「クラウド自身」を描き始めた
野島氏は、リメイク版クラウドについてこうも語っている。
「格好悪い時もある、人間臭いクラウドを描く」
さらに、
「AC以降の内面に優しさをたたえた彼ではなく、画面の中から挑戦的な目で僕を見つめる、ギラギラした表情の青年がいた」
とも述べている。
これはかなり象徴的だ。
リメイクシリーズは、AC以降に定着していた「クールで繊細な青年」としてのクラウド像を、一度崩している。
代わりに描こうとしているのは、
- 虚勢を張る
- 未熟
- 不器用
- 痛々しい
- 他人へ憧れすぎる
- 自分を見失う
そんな「等身大の青年」としてのクラウドだ。
つまりリメイクは、
“プレイヤーが補完するクラウド”
ではなく、
“クラウド自身”
を描こうとしているように見える。
「本当の自分を見つけて」
リバース終盤、エアリスはクラウドにこう告げる。
「本当の自分を見つけて」

この言葉はかなり重い。
なぜならクラウドは長年、
- 他人の期待
- 理想像
- 英雄願望
- プレイヤーの解釈
によって、常に“何者か”を演じ続けてきた主人公だからだ。
そしてそれは、プレイヤー側も同じだったのかもしれない。
私たちは長い間、「自分のクラウド」を愛してきた。
だがリメイク三部作がもし描こうとしているのが、
「クラウド自身が、自分自身を選ぶこと」
なのだとしたら。
そこではじめて、
「クラウドには、プレイヤーそれぞれの“クラウド像”が存在していた。
だが同時に、クラウド自身の人生もまた存在している。」
という当たり前の事実に、向き合うことになるのかもしれない。
クラウドは「自分自身」を選べるのか
リメイク三部作が描こうとしているのは、「クラウドは誰を選ぶか」の話ではない気がしている。
むしろ、
“クラウドが、自分自身を選べるのか”
という話なのではないか。
- 他人の期待。
- 理想像。
- 英雄願望。
- 無数の“クラウド像”。
それらから解き放たれ、クラウドが、自分自身を選ぶのではないか?
野村哲也の発言
さらに興味深いのが、野村哲也 が『週刊ヤングジャンプ』のインタビューで語った内容である。
野村氏は、FF7について、
「プレイヤーの思い出に微妙な“認識のひずみ”がある」
と語っている。
さらに、リバース終盤のセフィロスとクラウドが飛んでいく、色々なビジョンが見える“白い空間”について、
「プレイヤーの心の中にある『FF7』の世界もあって、どれも『FF7』ですが、どれも微妙に異なっています」
とも説明している。

これは単なる“並行世界”の演出というより、
「30年間、プレイヤーごとに少しずつ形を変えていったFF7そのもの」
を、物語で表現し、取り込もうとしているようにも見える。
クラウドが自分で決めるものとは?

- プレイヤーごとの解釈
- 思い出の書き換え
- スピンオフとのズレ
- 認識のひずみ
それらに引き裂かれながら、それでも最後に、
「自分は誰なのか」
を、クラウドが自分で決める。
それが、FF7リメイク三部作の終着点なのかもしれない。


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