第1章:『FF7』が若者の“広場”でなくなった理由──かつての正解が城壁になるまで

作品考察

先日SNSで、FF7リメイクのSwitch2店頭試遊台に、小学生たちが楽しそうに群がっている動画を見かけた。 「久しぶりに、FFを子どもが触ってる光景だな」と思うと同時に、なんだか胸が温かくなった。

でも、その微笑ましい光景を見たあとで、ふと気づいてしまった。

──自分の周りでは、FFを語る若者をほとんど見かけない。

スマートフォン向けに『FF7 エバークライシス』を展開し、最新作ではボス討伐型のチームバトルを導入するなど、FFシリーズは時代に合わせて懸命に手を伸ばし続けています。その努力は、正直伝わってきます。

それでも、コミュニティを見渡すと、ある違和感が残るのです。

「FFに、若者があまりいない。」

シリーズ最大の看板であるはずの『FF7』のリメイクプロジェクトが進む今でさえ、
その熱狂の輪はどこか固定化され、外からは見えない高い壁に囲まれているように感じます。
かつて誰にとっても「優しく開かれた入り口」だったFFは、
いつから「選ばれたファンしか入れない城」になってしまったのでしょうか。


若者がまったくいない、というよりは、
“姿が見えにくくなっている”という方が近いのかもしれません。

私自身の周囲や、イベント・アンケートなどを眺めていると、
どうしても30〜40代が中心に見えてしまう場面が多いのは事実です。

もちろん、若いファンが点在しているのも確かです。
SNSでは20代の声も見かけますし、作品そのものの魅力は
世代を超えて届いているはずです。

ただ、かつてのように“自然と若い層が集まる広場”ではなくなっている──
そんな印象を受けるのです。

これは「若者がいない」と断言したいわけではなく、
単に“見えにくくなっている構造”がある、という話にすぎません。

■ 1. 「ソニーというゆりかご」が築いた、意図せぬ城壁

FFシリーズが世界最高峰の映像美を実現できたのは、ソニー(SIE)という強力なパートナーの存在があったからです。PS2時代までの爆発的な普及は、その蜜月関係が生んだ黄金時代でした。

しかし今、その「ハイエンドへのこだわり」が若者の生活圏との溝を生んでいます。 今の若者にとってゲーム機とは「リビングのテレビの前」ではなく「手元のスマホやSwitch」です。PS5実質専売という選択は、結果としてFFを若者の集まる広場から遠ざけ、「高いハードを買った人だけの密室」に閉じ込める形になってしまいました。

これは責める話ではなく、技術と誠実さの間で板挟みになった、FFらしい苦悩だと思っています。

■ 2. 「裏切られた」と感じさせてしまう、ハード乗り換えの構造

PS4でリメイク1作目を買い、同梱版まで手にしたファンに、続編は「PS5のみ」という選択を突きつける。「最新技術で最高の体験を届けたい」という作り手の想いは理解できます。それでも、ユーザーの目に「高価なハードの買い替えを強いる不誠実さ」と映ってしまったことは、否定しきれません。

コスパと「裏切られない安心感」を重視する若い世代にとって、数年おきに高額なハード更新を迫られるコンテンツは、どれほど物語が素晴らしくても「趣味として続けにくいもの」になってしまいます。

■ 3. 「どこでも遊べる」という、現代の当たり前との乖離

今の若い世代は、ゲームに触れる時間そのものが細切れで、 「空いた5分でちょっと遊ぶ」ことが当たり前になっています。 サブスクのように“いつでも始められて、いつでも離れられる”気軽さが、彼らにとっての誠実さの基準になっている。

そんな中で、FF7リメイクのように 「特定のハードを用意し、腰を据えて向き合うことを前提とした作品」は、 どうしても生活のリズムと噛み合いにくい。

さらにコミュニティを覗けば、 30年分の歴史や論争が積み重なった“重たい空気”が漂っている。 若者にとっては、作品そのものよりも先に、 その空気の重さが立ちはだかってしまうのだと思う。

だからこそ、あの店頭試遊台で小学生たちが 無邪気にFF7を触っていた光景は、 どこか救いのように見えたのかもしれない。

■ 4. 「親切な体験」が、いつしか「お仕着せの道」になった

かつてのFFが広く愛されたのは、「迷わずに最高の物語体験へ没頭できる」という徹底したユーザーフレンドリーさがあったからです。しかし、自由な探索と自分だけの攻略を楽しむオープンワールドに慣れた今の若者にとって、その手厚いガイドは皮肉にも「決められた手順をなぞらされる窮屈さ」に映ってしまっています。

かつては長所だった「至れり尽くせりの体験」も、今の時代には「お仕着せの聖域」として作用し、プレイヤーが自ら物語を切り拓く余白を奪っているのかもしれません。

こうした“時代とのズレ”は、実は作品そのものだけでなく、FFというブランドを背負う側の意識にも根を張っていたのだと思います。

FF15のディレクターは、当時こう語っています。

引用

「ええ、ネガティブなフィードバックもいっぱい来ました。 ああ、これがFFっていうIPの歴史なんだって、そのとき改めて思いましたね。 ただそれと同時に、「FF病」にかかったままの人が、ファンの中にもいっぱいいるんだってことに気が付いた。

スクウェア・エニックスの社内にいる、自分のFF観でしか物事を考えられなくなってしまった人達のことです。 その根っこにあるのは強烈な自己肯定で、チームの勝利条件よりも,自分のFF観を優先してしまう。 「FFは特別なゲームで、それを作っている自分達も特別なんだ。FFの新作が出たら皆が食い付くはずだ」って、どこかで思っている。

でもそんな現実、あるわけないじゃないですか。」

(田畑端インタビュー 4Gamer)

この“FF病”という言葉は、 単なるネットスラングではなく、 ブランドの内側にあった構造的な問題 を示す象徴だったのだと思います。

■ 結び:「FF病」から目を覚ます、その先へ

かつてFF15のディレクターが危惧した「FF病」──「自分たちは特別で、出せば皆が食いつくはずだ」という強烈な自己肯定。この「病」は作り手だけでなく、一部のファンにも伝染し、自分たちの理想という狭い檻の中に作品を閉じ込めてきたように思います。

ではFFはシネマティックを捨て、流行のマルチゲームに方向転換するべきなのか。そうは思いません。

本当に必要なのは、実写と見紛うリアルを追い続けることではなく、
かつて私たちが熱狂した「野村哲也の描くあの漫画的なデフォルメ」を、
今の技術でそのまま動かすことではないでしょうか。

あるいは、ドット絵時代に宿っていたあの“愛らしさ”を、
現代の漫画的なグラフィックへと丁寧にアップデートしていくこと。

いずれの方向も、フォトリアルの重圧を一度脱ぎ捨て、
FFが本来持っていた“キャッチーで鋭いアイコン”に立ち返る試みです。

そのときこそ、FFは再び、
若者たちが自ら手を伸ばしたくなる「憧れの存在」に戻れる気がします。

ここで言いたいのは、市場規模や北米の嗜好の話ではありません。
FFというブランドが本来どこに“魅力の核”を持っていたのか──その部分です。


そんな未来を願いながらも、ふと周囲を見渡すと──
スクウェア・エニックス自身も、ゆっくりと舵を切り始めているように見えます。

フォトリアルを軸にしたナンバリング路線は続けつつも、
Switch2への『FF7リメイク』や『リバース』の移植という形で、
再び“より広い層”へ手を伸ばし始めた。

それがユーザーの財布を思っての判断だったのか、
あるいは苦渋の決断だったのかは分かりません。
けれど、行動を起こしたという事実だけは確かで、
私はそこに「ようやくか……」という安堵に近い気持ちを覚えました。

──大衆のFF、おかえりなさい。

そんな小さな希望を胸に、もう少しだけこの話を続けてみたいと思います。

第2章:選ばれなかったエリートたちの「空き地」へつづく

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